新現美術協会50年史(2000年12月刊行)<特別寄稿> 世紀を超えて・・・塩田長和新現美術協会が、佐藤多都夫、志賀廣の両氏を中心に結成されたのは、1949年4月というから、実に50年の歳月が経ったわけである。両氏既に亡く、現会員のなかで51年の第一回展に出品されたのは成瀬忠行氏だけとなった。その間、多くの人材が加わり、「新現」を目指して歩み続けて来られたことに、まず敬意を表したい。 手許にある40周年記念誌には、私も拙稿を載せさせて頂いたが、畏友三井滉氏の「新現への期待」の一文に、改めて惹かれた。三井氏は10代からの学友で、彼が93年に死去したことは、宮城の文化発展にとって大きな損失だった。氏はとりわけ新現会には深い関心を持ち、共に語った人も多い。氏はこの稿の中で”「新現」という言葉は、現代の変転極まりない日常的、社会的現実を見据えること、その上に立って日々新たな自己の内面の表出を目指すこと”と定義している。まさに、新現会の発足の理念を簡潔に述べたものである。 1949年という年は、戦後間もなく、さまざまな価値観の定まらぬ時期でもあった。戦時下の制約から解放されたとはいえ、時代を見据えて自己を表出するには、それなりの勇気と決断が必要でもあったろう。そうした環境のなかで、佐藤氏らは、特定のカラーを持った絵画集団ではなく、それぞれの自由な自己表出ができるグループをと思ったのであろう。第一回展のメンバーに、中原四十二、立川鴻三郎、佐藤新一、菅原忠造といった人々の名が見られるのはその証である。 美術団体-美術展は、とかく一定の傾向、志向によって形成される。しかも、中央展とのつながりが、重要視される。いわゆるアンデパンダンはなかなか成功しないのが常でもある。こうした風潮の中で、新現会が、抽象、具象の枠組に捉われないばかりか、染織、デザイン、立体など、新しいアートの創造を目指す人たちと、共通の場を作り上げてきたことは高く評価されてよいであろう。もちろん、50年の歩みは、傍から見たほどの淡々としたものではなかった。この50年、宮城の美術界に限って見ても、底辺の広がりと共に、多様な志向、世代の交代と大きな変貌を遂げてきた。宮城県では1933年にスタートした河北美術展が、美術の普及の大きな原動力となってきた。その功は大きいが、その拡大とともに”官展”的色彩が順次強まって行ったことも否定できない。私は河北新報の美術記者として、60〜70年に新現会の人々と接したが、当時の”若手”から、そうした批判もたびたび受けた記憶がある。佐藤、志賀氏らも出品せず、一定の距離を置いていた時期もある。しかし、私としては、新現会の人々こそ、河北展に挑戦し、その革新を図ってほしいと強く願っていた。両佐々木、両跡部氏などの出展が、この時期の河北展に、大きなエネルギーを与えてくれたことが、その後の県美術界の進展に貢献したと、今も思っている。 その長い歴史の中では、入会者と同じぐらいの退会者も出ている。八巻行雄、針生鎮郎、佐々木健治、河田貞、土門邦勝といった名が40年史に記されているが、彼らは「新現」に拘り、そして、自分の方法でそれを守った人たちでもあろう。グループの拘束を越えて、対立と葛藤の中から、「新現」の理念が、更に広がって行ったとするのは、索強付会であろうか。 ところで、今日の美術界の状況は、私のような”門外漢”には想像を越えたところまで多様化しているのに驚かされている。例えばことしの春、宮城県美術館で開かれた「アートみやぎ」は、宮城県出身、在住の8人展であったが、平面の作家は日本画の能島和明と、水彩の佐藤健吾オリエの2人であり、「空間」と闘う作家たちが主体であった。そこでは絵画とか彫塑といった、従来の美術様式の枠組みを越え、自己表出の場を大きく広げようとの試みが自在に繰り広げられていた。8人の選定基準がベストかどうかは別として、この企画展では、作家と観者が一体となって、美を共感し、共有しようとする姿勢が積極的に展開されていたことに、改めて美術の何たるかを考えさせられた。 私は、一応は美学・美術史を学んだが、美との対話は未だに不十分である。しかし、学生時代に初めてルオーの作品を見たときの不思議な感動や、モジリアーニの女性像へのあこがれなどは、私の心の中で息づいているように思う。またことしの夏、久しぶりに訪れた箱根の彫刻の森美術館で、ピカソの陶板画と再会し、そのあくなき人間性と美の追求に、しばし立ちどまった。こうした天才ではなくても、美を表現する多くの作家たちの作品から、私たち観者は、生きることのすばらしさ、悲しさ、怒り、喜びを直感することができる。つき詰めれば、その人間性から生きる糧を得られるのが美術であり、芸術なのであろう。 ことし9月、中欧に小旅行し、ドナウ河に沿って、その風土とともに生きる人々を垣間見てきた。ハプスブルグ家の栄華よりも、昔と変わらぬ自然の美しさに、ヨーロッパを見直した。「アートみやぎ」展で、青野文昭氏が、棄てられたものの再生と取り組んでいた姿に、新しいアーティストとして共感した私ではあるが、反面、日本の現実の、あまりにも、はかなく刹那的であることへの、悲しみを覚えずにはいられない。その一方で、能島和明氏が栗駒の山麓で、ひたすら自然と自己との対決を試みている姿を思い浮かべる。日本画という技法のなかでも、一つの「新現」が試みられていることに大きな期待を寄せているこのごろである。 もう一度、三井氏の文を引用しよう。「現代の美術家の革新は、過去の美術を否認するものではない。ふり返ってみるとき、歴史上に記憶されている運動や様式は、その時代、時点においてはすべて革新であり、新現であった」。 新現美術協会の50年は、物故された人々、退会された人々、そして現在も営々として、自己の「新現」を追及している会員たちによって、みごとに積み上げられてきたといえる。とりわけて、絵画の基本である構図と色彩とのあくなき戦いの跡が、近年の作品でも十分にうかがい知ることができる。だが、戦後の混沌とした時代にあった、現実をはねのけようとするバイタリティーと自己主張が、やや希薄になってはいないだろうか。われわれを取り巻く、みせかけの”豊かさ”については、会員諸氏も十分に感得されていると思う。しかし、この現実と虚構に、どうしても惑わされてしまうこともあるのではないだろうか。妄言はお許し頂きたい。だが、今、新たな世紀を目前にして、私たちにとって必要なのは、初心に帰るということではないだろうか。現実を、どう現実として受けとめるか、これはすべての”日本人”の課題であるが、”美”を追求する諸氏にとっては、これはより大きな課題であると申し上げたい。そのためにも、これまで以上に視野を広げ、新たな「同志」が参加できるような素地を作ってほしいものである。小山喜三郎さんをはじめ、私の敬愛する新現会会員諸氏の、強い意志と勇気に期待を込めて・・・。 (元・河北新報論説委員長 宮城県美術館作品収集委員長) |
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