新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


自分にとっての新現会

白井潤治

 いつも展覧会、特に搬入の時に思うのだけれど、毎回皆さん頑張るなあとつくづく思う。どの展覧会でも見受けられるいつもの風景には違いないのだろうけど、何だか感銘を受けるのは何故だろう。

新現の歴史の積み重ねよりも、毎回の個人の頑張りが素朴に嬉しいというのは会の元気さを表すものだと思う。

 展覧会、自称彫刻家の僕にとっては、新現がその代名詞でもあるのだが、その展覧会に自分の彫刻の作品が率直に受け入れられて、設置しやすいかどうかという不安がいつもつきまとう。出来得るのならば、絵画平面系とは別室で、コンクリート打ち放しの空間で、蛍光灯は全て消して、スポットライトのみを上方から静かに当てたいというささやかな希望は持っている。新現はこのささやかな希望からすると、物の見事に裏腹ではあるが、この条件を受け入れても、尚余りある不思議なエネルギーを持っている。彫刻や彫刻以外の分野を積極的に包み込もうとする貧欲なエネルギーを持っている。

 このエネルギーで僕の希望は解消されてゆく。後は僕の作品の問題なのだろう。

 新現を観ていて、大変興味を持つのが、皆さんの作品から出てくる色彩の印象がある。どんなに主題が、作家の内包される心理的な葛藤があるだろうと想像されるにしても、不思議とその画面というか色彩はクリアだと思う。新現のような規模の展覧会として会員相互のコミュニケーションの取りやすさがあげられるだろう。そこには自ずと技術的なことの他に、会員各自の人柄が出てくる筈だ。新現は、その辺が演歌的になりそうでいてならない所が自分に合うのだと思う。逆にこう考えると、自分にとっての新現は非日常(日常を無視するのではなく)なのではなかろうか。一年に一回の爆発的な祭りの様に日常を昇華した存在なのではなかろうか。こう考えると自分の作品の数の少なさが説明できる。と同時に、自分が一個の作家として独立し得ないことをも意味している。これでは作品のレベルが降下してゆくだろう。自分はまだまだ作品の追い求めてゆくその先への思慮が足りないのだろう。先程の皆さんの色彩の話に戻るが、皆さんはどの様な方法でそれを突破されたのだろうか?その答えはまた今年の新現の中にあるのだろう。


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