新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


新現美術協会とその周辺

(東北における前衛美術運動への布石)

佐藤多都夫

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 大正、昭和の日本美術界には、在来の官学的リアニズムにあきたりないとする新しい表現を意図する作家の胎動が次第に大きくなりはじめていた。ヨーロッパでの芸術運動の各種の思想的移入が大きな力になっていたが、野獣派の洗礼を受けた絵画が、表現とは何かという問題に目覚めたからである。日本美術界でいち早く実践した一群はあっても、東北はまだ深く眠っていた。第二次世界大戦下の日本が芸術特に美術は聖戦美術展などに集約されるように、新しい活動は見るべきものもなく停滞の様相を濃くしていたのである。抑圧されていたのではなく、知らなかったのだという事ができよう。受け入れる素地を持っていても動けない人もいただろう。そのことは単に東北だけに限らない現象だともいえるのだが、戦争による苦難が殻を破る力を奪っていたとも見ることができる。

 やがて戦争は終った。と同時に価値観の変更や反転などが、もっと自分の周辺の検討の必要なことを教えてくれた。

 社会的な大変動が起きて、芸術表現だけが、戦前、戦中のままであり得る筈はない。社会に密着して人間の要求がかわるのは歴史的な事実である。我々個人の内部にもこれらの変化は敏感に響く、というよりルネッサンスだって先駆は芸術家と見られる人々であった。最も敏感に対応するのが作家達であるとすれば先取りの功績と責任も又これらの人間の問題である。

 米軍に占領された日本に、自由と民主主義が氾濫した。何が自由で、何が民主的かの混乱した受取り方はあったが、観念そのものは、暗い戦争指導のスローガンに対しては、魅力があった。手を握り、棒を持ち振り回して、身辺の自由を確かめるような気持で、どこで障害に触れるかを試した。

 そんな時代の日本、おそらく全国たいして、変化はないだろうと思われるが、当時の仙台はどうであったろうか。東北美術展を前進とする河北展が特に大きな美術展として存在しているだけで、同好会のいくつかはあったが、明確に旗を立てたグループ展もなかった。又、新東北美術展が主として在仙画家の大同団結のような形態で活動開始していたが、お祭り的な要素が強く、必ずしも芸術運動としての質の高まりを期待する所まではいってなかった。これはやがて各種のグループ展の連合体のような展開をして行き、やがて現在の芸術協会の母体的役割を果たしてくるのである。でも体質的に芸術運動としての動きよりは、合同展覧会の開催のために主力を置いた個人育成にはどれだけの功績があったかは疑問といわなければならぬ。作家の質の向上を期待する者にとっては生温いものであった。だが、画家の集団としての行事を絶やさなかったことは、その息の長い活動からみても、その功績は評価すべであったろう。

 河北展は第1回展以降、安井曽太郎氏を審査員として呼ぶなど、地方公募展としては異例の運営をして、そのあとを期待されていたが、安井氏の不参のあとは、官展の審査員に頼り、官展の下部組織展のような運営となっていた。新聞社にとって、二科の安井、と官展の××、は共に芸術院会員であることが大切であって、両氏の美術に対する質、傾向の違いは、あまり問題にならなかったのであろう。官展に受け入れられず、在野展をして次々と日本では新しい芸術運動が拡がり、その運動もやがて地方にも浸透して来る。

 敗戦からの立ち直りは、或る意味では古いものとの決別でもあった。戦争の黒い霧はすでにはれかけて来たのだ。食糧に乏しくとも、晴れ上がる日本の空に期待をかけていた。

 我々の期待に応える程、美術界は民主化も、表現の自由も行われないで、多くは作家個人の内部でだけ動くしかなかった。地方の全ての人が、絵画はどうなるかに関心もなく、数十年来の動向がそのまま進行していた。地方公募展も傾向は改まらなかった。

 このようなのが、新現美術協会設立までの仙台での美術界の状態であったし、そのまま或る安定を得ていた時代であったのである。

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 昭和初期以来、官展と在野の図式があって、やがて戦争後、この図式は対等から、在野優勢となっていくのであるが、中央の前衛運動は、はっきり公募展の結成に向けて進んだし、昭和24年には、読売アンデパンダン展が開かれるに到った。

 その頃、戦争に参加して各々自宅に落ち着いたのが守谷玉雄、佐藤多都夫、八巻行、菅原忠造、志賀広、等であった。宮城県の主流となっている公募展にあきたりなくとも出品して、八巻行や相沢正、守谷玉雄は河北展で受賞しその実力を見せていた。その一方で、新しい表現を意図して苦しんでいたのである。絵具もその他の材料も、この頃は不足がちであり、インフレーションによる現金不足が我々の足をすくっていた。個展もグループ展も開かれず、又会場もなかった。

 その頃の仙台での主流の画家は、菅野廉、中島哲郎、菅井庄五郎、沼倉正見の各氏などで、良い意味でも、悪い意味でも、具象の天下であった。アンドレ・ブルトン以後の風は吹いていなかったのである。

 東京に於いても、その頃モダンアート協会が昭和25年第1回展を持つべく、その美術としての戦闘体系を整えつつあった。その他にも在野の各公募展もその包含する様式の中に、前衛的作家を加え始めていたのである。仙台でも、共鳴する作家の2,3があり出品をする傾向も見えた。

 仙台での主流の絵画の表現に対して、敢えて前衛の様式で斗うというよりも、新現美術協会の創立者達は、まだ隠健な作風の中に、それぞれの芽を蔵ったままであった。

 昭和26年5月、新現美術協会の第1回展が開かれるまでには、昭和24年頃、佐藤多都夫と志賀広の間でグループ結成の話がまとまり、相沢正、新沢玉雄、八巻行、菅原忠造、高橋宏弐、佐藤福子、桜井武彦に呼びかけて参会することになった。九名である。最年長が、桜井武彦38歳であり、最年少が佐藤福子の20歳台であった。

 戦後中、制作する暇のなかった同人達は、やっと、同志を得て、制作の目的だけは立てた。志賀広のいる市工、佐藤多都夫のいた一高を会場として何回かの会合が持たれて、研究と共にやがて作品の発表会を持ちたい願望が強まった。新現美術協会の名も、当時は、新現会であった。新しい現実を描くという意味で、エスプリ・リアリテ・ヌーヴォーを、日本名でつけたのである。戦争に参加して帰った者が多かったことが、外国名をつけるのにためらいがあったのか知れない。今でも当時の会合を思い出すと楽しいゆっくりした雰囲気がなくて、兵隊服を着た落書きがない若い人達が、真面目に抱負を交換していたのだけを思い出す。

 仙台の地に、描きたい絵を描いて、自由に展示して主張できる城を造りたい。やがてそれが、大きな渦となって拡がればよい。そのためには、グループ同人は、他のどの展覧会に出す作品よりも努力作を出品し、お互いの活動の証しとするというのが合言葉であった。

 そこには抽象、具象の壁はなかった。第1回展を迎えるにあたり、新しく昭和26年、中原四十二、立川鴻三郎、成瀬忠行、佐藤新一の4名を同人に推した。

 第1回展のための準備は、イトー写真館のスタジオが提供された。今の東二番丁、広瀬通り交差点の西南角で、木造2階建であった。ポスターは手描きで分担して作ったのだが、藤崎の会場では、粗末な手描きポスターは貼ることを拒否された。案内状は、葉書に茶色のインクの手刷りのガリ版であった。名称は「新現会洋画展」と統一して使用してたようだ。三つ折の黒インク、ガリ刷りの出品目録と作家の言葉、会員住所録の外に、地球堂、文房堂、三越、藤崎、イトウ写真館の広告がのっている。当時から広告をあてにしていたのは財政的に困難であったからであろう。ちなみに、発足当時の新現会の会費は年間1200円であって、この会費は昭和52年度で20数年間値上げされることのなかったのは不思議であった。

 目録の第1頁には、立川鴻三郎が巻頭言であり新現会のマニフェストともいうべき一文をのせているので、引用してみよう。

 「新現会が発足してから既に2年の歳月が流れました。発足以来、同人の絵画への捨て難い愛、製作への激しい意慾につながって、現代絵画の探求という困難な課題に直面しながら絶えず相励まし合いながら、各自の個性の発見、深化につとめて参りました。そして第1回の発表会を持つことになりました。 

 現代ダイナミックな機械生産の時代に”芸術家の仕事というものが、非常に古風な労働の形式に思われることがある”といったのは、ヴァレリーの言葉でありますが、”その亡びゆく工人の一種”という言外に限りない芸術への郷愁を逆に私達は、絵画への出発の場に致したいと思います。

 今後、発表会を重ねながら、各自の仕事を発展させ、深化させ、そして私達の絵画的クリマを築き上げ、展開して行きたいのは、同人一同の切なる願いであります。」

 これは新しいグループの結成の宣言としてはむしろ非常に慎ましくない謙虚といえる。いたずらに大言壮語して船出して、いくばくもなく難破破船するグループの多いのが普通で、この地味だが粘着力のある宣言は、それなりに創立同人の胸の中にしっかりと受けとめられていたのである。

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 新現会は名の通り新しい現実を目指して結成されたのであって、いわゆる前衛の旗を立てたのではなかった。むしろ新現会に拠って制作する作家達の自由さがやがて各自の様式を求め始めることによって、前衛絵画の拠点となっていったのである。自分の自由な製作を自由に発表できる展覧会を持つということは、その自由表現への意志、方向の可能性を増幅した。これは同人活動の利点である。重ねていうが、結果として前衛的な傾向が強くなっていったので無理して方向をかえたのではない。

 新現会におくれて数年、やはり新しい表現を目指して、「エスプリ・ヌーボー」が結成されて活発な仕事を展開した。仙台に於いても他に機があれば新しい絵画運動が起きる情勢があったことをこれは証明する。「エスプリ・ヌーボー」の人達がシュール・リアリスムに親しみを持っていて、その流れを起点としたのに対して、新現美術協会はどちらかといえば、アブストラクト・アートの傾向を求めて行ったのは面白い対照であった。「エスプリ・ヌーボー」がともすれば宣伝的であり、文書合戦的であったのに、新現会はそのどちらも不得手であった。だが「エスプリ・ヌーボー」は数年で分散し再び新しい旗を立てることがなかった。より東北人的な粘りと忍耐を新現美術協会の会員が持っていたのがやがて30年以上の会の持続につながったのだと思う。

 志賀広、佐藤多都夫、相沢正はアブストラクト・アートへの表現形成に進み、モダン・アート協会の会員となり、中原四十二、成瀬忠行は二期会同人となって魅力ある画面を作った。新沢玉雄は、写実的な仕事を深め、遂に脱退して、日展、光風会への出品を指向したが、佐藤福子もまたそのあとを追った。立川鴻三郎は、抒情的な、超現実性を堪えた画面を愛されたのに、交通事故で死んだのは残念であった。桜井武彦は病弱であったが、誠実な自然観照に依る地味な製作を続けていたが、病気で死去した。

 これらの13人による第1回展から実に30年はすぎた。若者であった会員は、頭髪に霜を置き、首筋に皺を多くした。戦後苦難の数年から、豊かな現代までの道は遠かったとも近かったともいえるだろうが、一筋の道に堵けて進んできたことの個人的な長い道標は打ち立てることはできたであろう。30年にして改めて立て直して進むか、腰を下ろすかは自由だが、若い会員が古い会員にそれを許しはしないであろう。

 戦争後結成して以来30年の新現美術協会の歩みは、即ち仙台、宮城県、東北地方の前衛運動の歩みと見ることができるのではないかと思う。30年が歴史でないはずはない。


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