新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


創立30回展を迎えて

志賀広

 創立30年、そんなになるのかなという思いと、よくも続いたものだというのが実感である。30年といっても特別の意味があるわけでなく、時間の流れの中の一つのふし目にすぎないというだけのことと思うが、然し10年という区切りを考えるとその3倍であり、人間の一生を基準に考えても相当な年数であることがわかる。これからの発展を考え、反省する材料として、これまでの経過の資料を一応整理する時期としては最もふさわしい年数であるかも知れないと思う。

 何はともあれ、永く続くことはよいことであり、祝賀に価する事柄とは思うが、これが芸術運動であり、絵画の展覧会となると、事はそう単純でなく、手ばなしで喜んでばかりおれなくなり、その質、内容が問われていると考えねばならず、すれば永く続いたことに特別の意味はなくなり、芸術的精神の燃焼の度合いの強さの持続が表面に出てくることになる。そうでなければ、反対に30年つづいたのだからこのあたりで中止してもよいのではないかという考えも成立するわけで、それをはねのけて、将来に向って強く前進するためには、会員一人一人の作品の質の向上がなにより要求されるのは言うをまたない。同人展の成立は、競争の原点に立って、どんな実験的作品も出品できることであり、私達はそれを信条として、一点にとどまることなく新しい方向を求めて互いに競い合って会を持続してきた。芸術は自由で多様である。私達は過去において一つの主義主張をとったことはなく今後もないものと思う。一般では、私達の団体を、抽象作家の集団とするかたよった見方をする人が多い。比較的多くの作家が、その方向を取っていることは事実だが、然しそれは狭い抽象の考えで、抽象具象の枠をこえて、現代芸術探求の必然的な結果であり、現代の具象にとりくむすぐれた作品も多いことを知ってもらいたいと思う。

 この文を書くにあたって久しぶりでパンフレットにのっている小史をながめてみた。会の結成は昭和24年、30年の昔である。創立当時のことは佐藤さんが書かれる予定なのでふかくはふれないが、一言つけ加えると、当時集まったのは、主義主張を同じくする仲間が何か社会にアピールしようとして、団体をつくったのではなく、終戦後の混乱の時代からやっとぬけ出す兆しが見えはじめた時代、絵を描きたいというひたむきな願いを持った数人の仲間が、佐藤さんの周囲に自然に集まり、研究会を持ったのがはじまりであった。今では想像もできないことであるが、当時はキャンバスも絵具も思うにまかせぬ時代である。戦時中使用され廃品となっていたグライダーの羽の布地をみつけ出し、それをキャンバスの代用として描いたこともあった。絵具は貴重品であったが、今にくらべると質も悪く当時描いた絵は今出してみると保存も悪いせいもあるが、殆ど変色して見るかげもなくなっている。当時の思い出の一つに、はじめて佐藤さんのアトリエを訪問して、箱で絵具を収集しているのに驚き、かえりにホワイトを頂戴して感動した思い出がある。思わず個人的なことを書いてしまったが、私がこれまで絵を描いてこられたのは、新現会との出会いをぬきにしては考えられず、又それにもまして、これまでもたびたび挫折しようとする弱い自分に彼の適切なアドバイスがいかに貴重であったかを、どうしてもここに一言記しておきたかったからである。

 どんな団体であれ、結成されてからの数年は、今の言葉で言えば高度成長の時代である。新現会もその例にもれず、年を追うごとに、会員の数も急速にふえ、種々の行事計画も、次々に実行されたことは記録を見れば、あきらかである。例えば市民とのコミュニケーションの場として、一般を対象とした美術講演会の開催、又絵画実技指導の場として“市民のための美術教室”の開講等である。特に美術講演は創立10年目の行事として最初に昭和33年に東京から評論家の徳大寺公英外2氏をむかえ、商工会議所ホールを会場として開講された。これが、好評をもって迎えられたことにより、次の10年間には、針生一郎氏、三木多聞氏、中原祐介氏等の評論家を招待して次々に開講することになる。東京で個展を開催する会員の数も次第に多くなったのもこの時代であり、昇り坂の隆盛の時代と言うことができると思う。中央では、毎日美術展が発足して世界の美術作品を招来し、サロンドメエ展なども開催され、戦時中の空白をうめる動きが、急速に高まりつつある時代であった。

 又“市民のための美術教室”の開催も忘れてはならない行事である。週1回、特別の事情がない限り年中無休で実施されている教室は、外にはないので、はっきりした実数がつかめないのが残念だが、これまで1回でも参加した経験を持つ人数を集計したら数千人になるのではないか。現在東北で作家として活動している画家、デザイナーのうち、ここに参加した経験を持つ人は相当の数になるのではないかと思う。

 新現美術展の開催の時期が1月の末から2月の初めにかけて固定されてから久しい。それは最初会場を提供してくれていた丸光デパートの都合によったことと思うが、当時はそのオープニングに多数の仙台の文化人が集まり、年のはじめの祝賀会のような観を呈したものであった。会場として丸光デパートを借用したのは、記録によると第5回展から第22会展まで実に18回の長きにわたっている。会場構成その他で、デパート側が示してくれた協力も忘れがたい。色のついたラシャ紙をバックに張ったデスプレーは、会場の雰囲気をもりあげるのに大いに効果があったと思う。

 最初の10年は精神の高揚の時代、次の10年はその成熟の時代とすれば、最近の10年は何の時代にあたるのだろうか。最初に書いた如く、このような区切りに特別の意味をつけるのは無理で不可能なのかも知れないが強いてあげれば、“主張の時代”とでも言えるのではないかと思う。年令的にも会員個人が、自分の世界をつくりあげ、その世界を広く深く探求し自己主張する時代にさしかかっているのではないか。東京の美術展に出品し、賞を受けまたはその会員となる人も、年々増加している現状である。個展の開催により大きな意味を見い出し、それに全力投球する姿勢を打ち出している会員もいる。会員数も年々増加し、然も若がえりつつある。創立会員は13名中現在3名しかいない。新しく加入した会員にすれば、30年の歴史の重みは実感としてないかも知れない。それは当然かも知れないが、然し会がうける、社会的評価はジャーナリズムその他を通して感知されるはずで、会の一員である限りその歴史の荷ない手となることは無理ではないと思う。その意味で会の成長は全体の責任であり希望である。老人くさい言葉で恐縮だが闘志ある新人が続出し、実験的作品で会をリーしてくれることを希望したい。会が長く持続する意味もそこにあると思う。作品に年令はないかも知れないが、ゼネレーションの相違は歴然としてあるような気がする。それは展覧会を見れば一目瞭然である。前にも書いたように、同人展の意義は、競合による自己の発見であるとすれば、年1回の展覧会は会員同士の対決であり、同時に対社会との対決であると考えられる。

 30年の記念の感想を求められて、長々と書いてきたが、駄文をつらね大変申し訳ないと思っている。うかうかとつまらない作品を発表しているうち、いつの間にか30年がすぎ、年から言っても最年長になってしまった。此頃は、人に会って最近どんな作品を描いているのですかと問われると、目下遺作展の準備をしていますと答えることにしている。此頃は死が私の切実なテーマになっている。このテーマで傑作を一枚描くことが目下の目標です。


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