新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


6回展から10回展のころ

三塚和夫

 小生は創立二度目の会員推挙により会員となりましたので既に26年を経過したことになりますが当時の回顧はもはや断片的にしか憶えて居りません。当時の制作や生活環境を考えると現在との隔りの大きさに驚きます。

 この5回の展覧会の間に新しく参加されたのは当時20歳代の若手作家、小山喜三郎、佐々木健治、佐々木健二郎、飯渕祐二、幸渕幸子の五氏で、今や40歳代の最も円熟した境地に居られ、協会の推進力となって居られるのは御承知のとおりです。お互いに研鑚を重ね乍ら独自の画境に達して居られます。当時はこれらの作家が制作に情熱を燃やすと共に会の運営にも積極的に行動し、共に汗を流して搬入出、展示作業に、機関誌の発行に推進力となったものでした。今日でもなおこれらの諸氏の行動力は買い運営の基盤とも言えると存じます。この5年間には新現会を新現美術協会と改称しmか委員相互の選出による会員賞制度を導入する等、協会の運営に熱心に取り組んだ時期です。34年にはデザイン部を創設にし、仙台市在住のグラフィックデザインの分野に新風を吹入れました。

小生も新現美術協会の発展の中で青春を謳歌し乍ら生きられたこと、そしてその中で育てられてきたことを思うと心が熱くなります。仙台の画壇の内に新風を吹込む役割を果たしましたが、当時は仙台に若い作家の集団が他にもあり、新しい創造をも座して相互に刺激し合ったものでした。その集団は既に形としてありませんが、今も投じのライバル達が活躍しているのを思うとあの頃は良き時代だったなあと云う気がいたします。若い私達にはライバルがあった方が寄り激しく生きられたと思うのです。当時の若い作家達は皆苦労し乍の制作で画材を得るのにかなりの覚悟を必要とし、制作欲を満足させる物量を手にすること仲々困難でした。経済的に楽々とやっていた作家は殆どなかったでしょう。茶の間も寝室もアトリエも一緒の生活でいつも綿ぼこりがくっついたキャンバス状況でした。

制作の部屋を確保することも楽ではありませんでした。小生もこの時期は夜学生でトラックの運転手の生活の奈かで制作していましたので夜の政策が中心でした。いつも出品して会場で自分の作品を見ると裸電球60Wの下と蛍光灯の照明ではギャップがありすぎて困ったものでした。加えて当時の蛍光灯は演色性があったので色彩は会場での効果を見るまで恐ろしく不安で出品したものです。 

 当時の若手作家の大半が同様の状況だったと推測します。搬入出の運搬は小生の会社のトラックを利用していたので、いつも搬出の際はこの若い仲間のアトリエにあがり込んで話に花が咲いたものです。皆同じような生活の中から制作しているので話が通じ合いました。例えばキャンバスにしても大作に用いることが出来ずベニア板を殆どの若手作家が使用していました。搬入は大変な重労働になりましたし、ぎりぎりの間際までの制作で絵具は乾かず積卸しには非常に苦労したものです。

 当時は何故か会期前後に雪が降るのが通例でトラックはスリップするし道が悪くてアトリエの傍まで入れずかなりの距離を手で運ぶような苦労も若さで苦もなくやっていました。40歳代の今の私達にはとても出来そうもないことをやっていたのですね。

 とりとめのなりことばかりの現在です。過去と今は状況が違いますが、あの頃の熱情が欲しいと思うのは小生だけでしょうか。激しく生きていない自分が一寸情けないなあと感じることが多いのです。


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