新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


11回展から15回展のころ

小山喜三郎

 新現会を草創期、発展期、醸成期とわけさせてもらえば、11回展(1961)から15回展(1966)の活動は発展と躍進の時代であったと思う。具体的に新入会員をあげてみても、吾妻篤、跡部高染、早坂貞彦、早坂健、桜井文比古、斉藤敏行、菅原弘、森彬、跡部邦明、山崎進伍、北村幸四郎、海野静子、等々現在本会の中心的存在となった人々の名が続々とあらわれてくる。又染色部が創設されて、絵画、デザイン、染色の三部門がそろったのは11回展、宮地房江の時であり、後で水野喜重子が会員となっている。本展は仙台が段の新春の話題をさらい、志賀広の会員賞三回受賞を始め、新入会員が会員賞を奪い合っていた。河北展や勤労者美術展の数々の受賞をはじめ、佐藤多都夫のモダンアート会員推挙(1961)、佐々木健二郎のモダンアート会友推挙(1962)、成瀬忠行、佐藤多都夫、志賀広、佐々木健二郎の東京や仙台での個展が開催されている。このような画業のイベントはいずれも仙台の画壇の嚆矢となったことであった。

 しかし発展期といえるのはこのような活動だけではなく、本格的な美術を仙台に受け入れるための土壌をつくる困難な根まわし的仕事を続けていた会員が運営する市民のための美術教室は、アメリカ文化センターの御理解のもとに、毎週金曜日の夜のクロッキー教室を一回の休みもなく奉仕的に開催している。そして、1963年には市民のための美術教室10周年記念素描展と、安田周三郎氏による記念講演を行ない、1964年には、会員による10周年記念小品展をひらいている。

 又1965年には、北三番丁の一角に待望の新現会会館が設置された。これは会員の成瀬忠行の御親戚の菱沼さんの御好意によるもので、8帖、6帖の二部屋ながら、我々の会合の場として外、デッサンと絵画教室として開放され、会員が指導にあたった。初代館長は成瀬忠行である。飲みすぎて帰宅出来ず、翌朝までの住み家とした会員もおったようだが、会館は会員外の雅勇からも羨望のまとであった。

 会員のリクリエーションとして、春に企画された家族ぐるみのバーべキューは恒例となり、会場も奥新川、熊ケ根、宮戸、丸森と変化に富み、年々参加者も増えて、肉を活源とした会員の二世誕生に沸いたのも懐かしい思い出である。

 以上のべてきたような数々の出来事を含めて、発展期といったのは、過言ではないと思う。そして当時の仙台の常に行動の先端をきり、アイデアの先取りによって、啓蒙的役割を果たしたことも事実であろう。中央からやってくる審査員のお言葉であり、きまり文句の「全国的なレベルに達している」は心ある制作者からみれば、外交辞令であることは明白であるし、逆に中央のレベルを超えていると思う場合もあり、中央とは何であるかと問いただす時もあろう。当時の我々は地方性や地方色を主眼にしたり、脱却することを主張したことは一度もない。何かといえば地方の時代とこれみよがしにふりかざす昨今とはちがい、自分達の行動に自信をもち、中央に偏せず、目をふさがず、地方に甘えず活躍したことを誇りと思っている。13回展のパンフレットに掲載された会員の20代作家の討論会は、跡部高染、吾妻篤、小山喜三郎、佐々木健治、佐々木健二郎、早坂健、早坂貞彦によって行われたものだが、個展の意義と開催地の問題、個展と団体展の制約と意義、欲しい美術館、美術に対する一般の関心度などの内容が、現代にあてはまる部分が多いのは何故だろうと考えさせられる。又新現会の正確については彼等はこぞって本会は独立独歩の発表機関であり、よい意味でのライバル意識が必要で、お互いに存分に力量を競い合うこと、つまり形式は団体展でも、個展の気持ちで作品を発表することだといっていることは重要である。この点を他の会の人々は知らない為に、新現会の主義、主張をたずね、具象が少ない会ですね・・・・ときめつけているようである。

 ひるがえって投じの美術界を考えると、60年代に入って、アンフオルメルによって口火をきった表現の形態が、次々と新たな前衛意識をかりたてながら、反体制的な団体的否定論から、ポップアートが颯爽と登場してくるのである。前衛的な活動はますます多様性をおび、流行は流行を生んで、マスコミの発達によって全国にひろがり、前衛という言葉は総括的な形では使用出来ないものとなっていった。

 このような時代に、20代から30代作家を多く抱えた新現会は、作家自身も夫々に苦悩し、さまよった所も多かったのを否定はしない。佐々木健二郎がメキシコから米国へ渡り、定住して制作活動にとりくむことになったのは会員の動きの一つのあらわれであり、勇気づけられた出来事であった。会員はそれぞれに、流行に偏せず、地方におもねず各人の意識の中で懸命に現代をとらえて密度の高い精力的な作品を発表していったと考えられる。今30周年をむかえようとするにあたり、新現会に対する作品の批判は会員の構成上、1961年から1965年前後を含めたいわゆる中堅作家群にむけられているが、同時代の作家群の制作活動がよい意味でのデッドヒートである以上、今後の仕事をみつめ批判して欲しいとも思うし、会の核であることを否定せず、責任を果たす内容のある仕事を発表して期待に答えていきたいものである。


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