新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


新現美術協会10年の歩み

第31回展から第35回展のころ

跡部高染

1982年〜1986年

 1982年東北新幹線が大宮から盛岡迄開通、日航機羽田空港着陸寸前海に墜落、原子力船むつ大湊港入港、東北地方3年連続不作、丸森線第三セクター決定、1983年仙台西道路開通、1984年仙台市長島野武死去、一万円・五千円・千円の新札発行、1985年青函トンネル貫通、東北上越新幹線上の発となる、日航機群馬県御鷹山に墜落、1986年米スペースシャトル爆発、フィリピン政変、マルコス国外脱出アキノ政権成立、ソ連チェルノブイリ原子力発電所爆発

 我々人間は文明の力を謳歌し、そしてもてあそび、そのつけがまわって来た時代であった。

 切望していた宮城県美術館も1981年秋開館した。新幹線の開通で東京との距離も3分の1に短縮した。今迄使って来た、中央と地方と云う言葉の概念も変わらずにはいられない。この様ななかで、新現美術協会展も回を重ねること30数回ともなれば、マイナス要因も蓄積して来た事も事実であり、いわゆる一つの「惰性現象」である。そしてこの地で、この新現美術協会とも言う作家集団としての意義を会員一人一人真剣に議論した時代でもあった。その結果一つに、展覧会のパンフレット発刊についての広告集めの廃止、それは制作以外でのエネルギー使用を断ち、制作活動に集中しようと言う事であった。又会の継続と共に会員の増加、それに付随しての惰性化を断つため、平面であろうと立体であろうと版画・染色・デザインであろうと、創作方法には自由にジャンルを越え、実験的にも創作出来る様、部門制も廃止したのである。

 又、多種多様な美術教室、カルチャーセンター等の出現により、市民への奉仕と美術啓蒙活動として30年間自由なクロッキーの場を提供し続けて来た「市民のための美術教室」を閉講したのである。

 第33回展(1984年)から今迄の市民ギャラリーより会場を県民ギャラリーにうつした。それは会員の増加と作品の巨大化により、手ぜまになった事は事実であるが、それにもまして会員一人一人がある種の危機感から脱出しようとした現れであったかも知れない。

 会員の活動では、57年畠山信行東北放送賞、58年桜井忠彦宮城県教委賞、59年佐藤淳一東北放送賞、60年芳賀広至福島県知事賞、相田ひろみ東北放送賞、佐藤淳一河北賞、と意気盛んなところを見せたのであるが、主力会員の一人、佐々木健治が退会したことは淋しい限りであった。

 偉大な作家でも、有名な作家でも、善し悪しは別にして、一(初め、未熟)があっての十であり、有名作家の屑(駄作)を集め、博物館化した美術館より。作家を育成する地元の為の地元の美術館こそ切望したいのである。


- back -