新現美術協会50年史(2000年12月刊行)


40回展から45回展のころ

森  彬

1990年〜1995年

 世紀末90年代の前半はまさに世の預言者が物語るべく不安で異様な現象が次々と起こった。

 湾岸戦争、阪神淡路大震災、サリン事件、は中でも比類のない壮絶な事件であり、また同時にいずれも視覚メディアの瞬時なリアリティは我々を震撼させ、記憶に焼き付けるに十分すぎるものであった。

 また、時同じくして仙台市長、県知事のゼネコン事件は我々にとって衝撃と赤面とで自信を喪失させるものであった。

 経済大国日本、まだ無限に続く右上がりの経済を信じ、土地神話に翻弄され、その頂点に達した。海外への大盤振舞い、投機的な絵画の買いあさり、等々。それが狂い始めた。まさにこの期間は世紀末的現象であったのか?

 1990年新現美術協会は40回展を迎え、40年史に位置づけ、41回展以降の会員の活躍を促すに十分なるものであった。

 この期間、16名の活躍する若手作家を新会員として迎えることができたことは新現会のアイデンティティーを堅持するにあまりあることであり、会員同士の一層の切磋琢磨と新現展の存在意義を深めるに大きな礎となるであろう。

 一方、作品と作家生活に独特で不思議な魅力ある北村幸四郎氏、そして、豊かな美術見識と、たえずコンテンポラリーを意識して作家活動された。又、新現展を絶えず陰日向になって支えてくれた高橋貴和氏、この両人がこの世を去ったことは我々にとって大きな悲しみであった。

 44回展は11回続いた県民ギャラリーから再び市民ギャラリーで行なうようになった。21世紀に向けて仙台市美術館建設予定の朗報を視野に入れての変更であった。会場のスペースによる出品の制限は会員のエネルギッシュな作品の上では問題ではなかったが、鑑賞者の増加はそれほど期待するもではなかった。

 '93年会員の成瀬忠行氏は郷土文化振興の一助けとして成瀬美術記念館を開館された。氏が長年抱いていた夢が実現され、会員一同その夢と祝福を共にできた。

 40回展〜45回展の新現会活動を見据えながら、以降を展望する時、40年史特別寄稿に寄せられた三井滉先生の「新現」と云う、言葉の意味(-現代の変転きわまりない日常的、社会的現実をみすえること、その上に立って、日々新たな自己の内面の表出を目指すこと、さらに新しい現実としてのアート、自然や日常的現実と同じくらいに、興味深く神秘的でさえあるような現実としてのアートの創造に向かおうとする意志を暗示する。既成の如何なるもの、主題、表現方法、或いはアートに関する観念をも含めて他に盲従することを拒否する中しか生まれてこないのが新現なのであろう。)を再び取り上げ、それが新現美術協会の世代交代期にどう新しい示唆として受け止められ、我々の作家活動にどう反映するか、を考えてみることは意義のあるものではないだろうか。


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