北折 整 (きたおり せい)
Sei Kitaori

新現美術協会50年史掲載(2000年12月刊行)

新現美術協会に対する気持ちや抱負などについては、他頁に記述させていただく幸運に恵まれたので、ここでは自分の製作に関して徒然に感じる事柄を勝手気儘に述べさせていただこうと思う。

まず誰もが思う事、何故自分は絵を描いているのか?描いてどうなるのか?ということであるが、これは本当のところよく判らない。もっとも本物の絵描き(?)はこんなことは考えもしないのかも知れない。画狂人は自分の「狂」の部分を意識していないからこそ、画狂人たり得る様な気もする。私は普通の人だから、この様な問いかけが常に頭をもたげ、何らかの答を見つけ出さなければ落ち着けない。学生の頃は、芸術というものに盲目的に信頼を寄せ、光り輝く様な価値を認めていたが、齢40を過ぎた今では、製作などは人生のほんの一部にしか過ぎないと感じつつある。一言で言えば、製作は私にとって趣味の様なものになりつつある。嘗て小中学校時代に切手集めに興じていた様に、今は絵に興じているぐらいのことである。但し絵を描く事は、切手集めよりはるかにつまらない。それでも製作を続けるのは、できあがったものに対して、或いはその行為に何らかの価値を認めているからなのかも知れないが・・・。

何故この様に冷たい状況になったのかとよく考えるのだが、そこには勿論40才という年令がある。否応無しに押し寄せる様々な現実の中で、ヘトヘトになっている腹のでた中年男の口グセは「寝るより楽はなかりけり。」である。また、作品によって毎日の糧を得なくてもよいという恵まれた環境も関係していると思う。更に、声高に「芸術」を叫び自分を誇示し、さも社会の高みに昇った様な顔をしている実に多くの作家達を見るにつけ、作家と呼ばれる面々への失望を禁じ得ないことも要因となっている。とにかくこんな事では良い作品は作れない。趣味であるからにはそれでもよいのかも知れないが、どうしたものか?ない頭で考える毎日である。

次に、絵の題名についてであるが、今描いている作品にどの様な題名をつけるのか?これは、私の秘な楽しみの一つである。いうまでもなく、題名と作品の内容との関係性などといった小難しい事は一切考えていない。ただ、その作品を描いてる時々に思った事柄や気持ちを、絵とはまったく関係なしに題名にしているだけである。今までつけた題名の中で、自分で勝手にヒットだと思っているものは、「或る日放尿し桃源郷を想う」「手の中には何もない」「何故か女の裸か」「手も足も出ない」などである。最新作は「ただ何となくボールが転がる」である。この中の「手も足も出ない」は、その題名がおかしなお陰で、或るコンクールで賞までもらう事になった。人に言わせると、どれもこれもなげやりで不真面目な感じがするとのことである。次の絵は「不真面目男なげやりになる」とでもしようか。「だからどうした」なんていうのも良いかと思っている。

作品を発表する事は最終的には自己を主張することに他ならない。題名をつけることも同様であり、今ここにこうして文章を書いていることも、方法は異なるもののやっていることは同じである。歳を重ね少々息ぎれを感じてはいるが、この大人げない欲求がいつまでも自分の中にあることを願っている。最後にはなったが、ここまでまったく言いたい放題の駄文を辛抱してお読みいただいた奇特な読者に、厚く御礼申し上げる。

- back -