中村 喜吉 (なかむら きよし)
Kiyoshi Nakamura

新現美術協会50年史掲載(2000年12月刊行)

9月のある日の思い(1) この前40年史に書いた文章に、私は10年後、絵を続けているか分からないと書いたように記憶している。またどこかの文章には、絵を描く意味を考え直すとも書いたようにも思う。10年たって見ると、まあ何を考えるでもなく、まあいいのか悪いのか、続けるだけは続け、継続は力なりとか言ったりして・・・。

論理的にまた意図的な、制作態度だけが正しいとは限らない。

多分に純粋な芸術的自己実現の喜びの衰退、つまりただ「うまくいった」という喜びだけでは、それが何なのと思ってしまう、裏腹な自分の有様・・・好むと好まざるとにかかわらず時間はむかしより、早く進むように感じられ、ものごとに感動をわすれている。

9月のある日の思い(2) 絵画の感動の原点はその作品にあらずして、見る側の想像力に負うところが多いと思う。ちょっとした誤解なのか、それとも大まちがいなのか?制作方法にもよるが、作りきってはいけないと思う。見る側が、足りない部分を自分の中で補ってやれるくらいの絵。大いに思わせ振りな絵がいい。その思わせが作者の思いと同じであろうとなかろうと、それほど関係はない。

同時代的な共感というか、大きなバックボーンの共有というか、こういう物がないと言葉のわからない者同士の会話になってしまう。また、同時期に、同世代が、同時多発的に同じような制作が生まれるのはどういうことなのだろう?

まったく、無目的な制作など可能なのだろうか。作品には本当に普遍的価値が生まれるのだろうか?作品とは別なところで誤解はまぼろしを生み、それが実体となり、1人歩きしだす。まあそれをふくめて制作と言えば言えないこともない。

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