大内 欽二 (おおうち きんじ)
Kinzi Oouchi

新現美術協会50年史掲載(2000年12月刊行)

「わたしのスケッチあれこれ その2」

北上山地の出合いに茅葺きの民家を訪ね、スケッチをして20余年になり、久慈市から本吉町まで自転車で走った道がつながりました。泊数も100を越えました。茅葺はここ10年で急激に無くなりました。持ちこたえられなくなったのでしょう。山の中でもベットタウンのようなプレハブ住宅が並んでいます。やがて都会も田舎も形や色の同じ家が並んでしまうのでしょうか。近頃は古い家並みや街道を走っています。5万分の1の地図を見ながら進むので、人に道を尋ねることはありません。田圃道で地図をみていたら「測量ご苦労様ですね。」「エエ〜ッ!」、大迫町から早池峰へ行く途中「ダム関係の人ですか」と声をかけられたこともありました。逆に車やトラックの人に道を聞かれます。私自身知らないので地図を見せて現在地を教えます。地図をほめて行く人もいます。何処へ行こうかと地図を見ていて、北上線ほっと湯田の朝風呂に入りたくなり、5時におきて一番の新幹線に乗ると8時30分には入れました。「町から補助をいただいているので安いんですよ」と番台の女将さん。湯船は熱さの違いに3つに別れていましたが、だれもはいっていないからかどれも熱かったのを思い出しています。女湯からカーちゃん方の話し声や笑い声が聞こえます。トーちゃんが働きに出掛けた後カーちゃんが朝風呂では男社会は益々厳しくなって行くのかも知れませんね。5月になり日差しが暖かくなって来ると道に蛇が出てきます。日なたのアスファルトの上は気持ちがいいのでしょうか。暑い盛り朱色の山ツツジが咲いているとき日差しの中で喉が渇きました。もっときれいな水をと土手を上がり藪を分け入り水を手で2・3回すくって飲みました。ふと顔を上げて前を見ると手の届きそうな水の中に蛇がとぐろを巻いてこちらを見ています。「・”!!〜ッ」、ここ30年で分校は地図から消えてしまいました。校舎だった建物は残っていますし、校門も石材で壊されずに校名の外されとれた跡が残ったりしています。校舎は床が取り払われキノコの栽培をしていたり、そのまま製材所とか、下請けの工場とか、講堂が物置とか、雉養殖センターになっているところもありました。標高700のところにある分校は玄関ホールで行われた閉校式の次第がチョークで書かれていました。最後の黒板文字をそのままにして閉じた分校、その思いがまだはっきりと残っていました。年号は書かれてはいませんでしたが、3月8日(月)とありました。昭和45年編集の地図を見ると山奥ほど確実に家々が消えています。小さな部落がふもとに引越したところもありました。山合いの営みをやめてしまった所にたたずむと寂しさを飛び越えて恐怖感を感じます。皆さんも何処かに出掛けてみませんか。

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